しかし、武田が滅んだことにより織田が毛利へ本格的に攻撃してくることを知り、毛利家は存亡の危機に直面していました。 つまり家康は「織田信長に怨みを抱いていた可能性が高い」ということです。
20宣下の話が真実だとすると、義昭に相談せずにいきなり光秀に宣下を下すということは考えにくい。
これだけの怨みがあっても、それでもなお「徳川家康」の黒幕説では可能性が低いと思います。
例えば甲州征伐を終えた後の諏訪の法華寺で光秀の言葉に反応した信長はお前は何も役に立っていないとして、寺の欄干に光秀の頭を押し付けて激怒したとか 祖父物語 、家康をもてなす役目だった光秀の家を訪ねた信長は魚の腐ったような匂いを嗅いだとして、いきなり役目を解任した 川角太閤記 などの話は有名です。
スポンサーリンク 『徳川家康』黒幕説を検証 こちらもいきなり結論を述べますと、「家康黒幕説」の可能性は低いと思います。
理由は、「家康が黒幕であった物証がない」ということです。
荒木村重も信長の死後、秀吉の御伽衆になっていますしね。
かれなと信長打談合衆也。 朝敵として信長を討ったほうがいいわけですし。 光秀の背後にいたかもしれない黒幕や、謀反を起こさざるを得なかった光秀の置かれた立場など、様々に推理・想像が膨らみ、多種多様な説が出されてきた。
秀吉が天下をとれたのが安国寺恵瓊のおかげだとしたら、納得できる話です。
その中で最も可能性が高いのが、2番目の「関ヶ原の戦い直前説」である。
江戸がまだ草田舎の織豊時代、比叡山延暦寺と石山本願寺は仏教勢力の総本山で反信長&反キリスト教。 翌年には「豊臣」の姓を名乗り、「太政大臣」に就任 【 1590年】、「小田原征伐」によって「北条氏政」「伊達政宗」を降伏させ、天下統一。
足利義昭黒幕説 自分を備後国に追放した信長に恨みを抱く足利義昭が、その権力を奪い返すために旧家臣である光秀に命じたとする説です。
2人は通常時は別行動をしていて、同時討伐を計画的に行うことは困難とし、信長と信忠が偶然にも身軽でそろうなど、突然訪れた千載一遇の好機による決起を有力視した。
・酒が飲めないのに刀を口元に突き付けられ無理矢理に飲まされる。 ついに、天下取りの時がやってきたのです……。 もっとも、信長が謀反をおこした光秀に対し、どのような感情を懐いていたのか、この言葉だけではわからない。
14しかし光秀さんはこれをすぐに見破り、煕子さんを妻に向かえたのです。
意外かも知れないが、そもそも本能寺の変は長い間、歴史研究の対象とされてこなかった。
それくらい肩書がない人が実権を握るということは怖いことなのです。 秀吉は、天下人となってからは、かなり残酷な処刑を繰り返しています。
10野望説は光秀が自ら天下取りの野心をもち続けていて遂に実行したという説であり、突発説は計画性はなかったが長年の野心が一気に爆発して事に至ったのではないかと言われているものです。
本能寺の変直前の朝廷の動向 当時の武家伝奏で織田信長や豊臣秀吉等と交流のあった勧修寺 晴豊(かじゅうじ はるとよ)の日記 『天正十年夏記』 によると、 天正10年(1582年)4月には、武田を滅ぼした信長の戦勝祝いに安土を訪れたことが記されている。
一番乗りで舞戻り光秀さんを倒し、信長さんの家臣の中での地位を不動のものとし、そのまま 天下人まで上り詰めたのです。
毛利側に送った光秀の書状を持った間者を秀吉側が捕らえたことで、信長の死を知る秀吉。